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戦争への道を驀進する安倍晋三政権の愚!!

あべよ2

戦争への道を驀進する安倍晋三政権の愚!!

第三次世界大戦は、アジアから始まる!!

先の大戦の戦没者の60%強は、何と140万人は餓死であった!!

 先の大戦の教訓により「戦争放棄」をしたはずの日本国が、狂人により、再び戦禍の中に放り込まれようとしています!!

 兵器製造企業は、フル稼働で兵器の生産に血道をあげていますぞ!!ぞ!!

 大した兵站もなく無謀にも、戦争に突入した売国奴達は再び「日本国民」を戦争へと引きずり出そうとしています!!

 兵站・・・戦闘部隊の後方にあって、人員・兵器・食糧などの前送・補給にあたり、また、後方連絡線の確保にあたる活動機能。

再びこの愚を犯そうというのか?

 第2次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)において、日本人の戦没者数は310万人、その中で、軍人軍属の戦没数は230万人とされています。

 敗戦直後の1945年9月、東久邇内閣が発表した陸海軍人の戦没者数は50万7,000人にすぎなかったが、調査がすすむとともにその数が増えつづけ、1977年に厚生省が明らかにした数字では、「軍人・軍属・准軍属」の戦没者230万人、外地での戦没、一般邦人30万人、内地での戦災死者50万人、計310万人となっています。

 調査や遺骨収集はつづいており、正確な数は依然として明らかにされていないませんが、現在では、日本軍人の戦没者230万人というのが、政府が明らかにしている概数ですが、まだまだ増え続けています。

 大東亜戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の過半数が戦闘行動による死者、いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという隠すことのできない事実があります。

「靖国の英霊」の実態は、華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、飢餓地獄の中での野垂れ死にだったのです。

 飢餓には、食物をまったく摂取しないで起こる完全飢餓、栄養の不足または失調による不完全飢餓、があります。
 この戦争における日本軍の戦闘状況の特徴は、補給の途絶、現地で採取できる食物の不足から、膨大な不完全飢餓を発生させたことである。

 そして完全飢餓によって起こる餓死だけでなく、不完全飢餓による栄養失調のために体力を消耗して病気にたいす抵抗力をなくし、マラリア、アメーバ赤痢、デング熱その他による多数の病死者を出した。

 そしてこの戦病死者の数が、戦死者や戦傷死者の数を上回っていたのです。

 戦死よりも戦病死の方が多いのが、大東亜戦争だったのです。

 それが一局面の特殊な状況でなく、戦場の全体にわたって発生したことが、この戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の軍律の厳しさをみることができます。

餓死の実態
戦没軍人の死因

 多くの戦場が玉砕(全員死亡)に終わるか敗退してしまったので、記録がほとんど失われている。
 さらに降伏の直後に、戦争犯罪の追及を恐れて、組織的に関連書類の大量焼却が指令された。

 このため陸海軍の各部隊どころか、市町村役場の兵事関係書類まで焼いてしまったところも多い。
 軍事と戦争に関する史料が、根こそぎ破棄されてしまったのである。
 このため戦没者の数にしても、数字に大差がある状況で、戦後日が経つにしたがって、調査がすすみ、その数が増えていくという状況にあります。

 この軍人軍属の戦没者230万人という数字は、それより13年前の64年に、厚生省援護局が公表した地域別陸海軍人戦没者数の合計212万1,000人よりは約18万人多いが、それはその後の調査の増加分を含んでいるからであろう。

 あんな惨めな戦争をしたのは近代国では日本だけです。人命軽視、薄っぺらい精神主義の結果があの餓死者でした(特攻も同列ですが)。

 日本軍ほど兵士を残酷に扱った軍隊もないでしょう。

 兵営では上級兵が下級兵を殴る、蹴る、戦争になったらまともな補給もしないでムチャクチャな突撃をさせたりしています。

 更に、東條英機の出した「戦陣訓」の為に、散々負けて武器弾薬が無くなり食うものすら無くなって人肉食に追い込まれても、降伏して国際法で保証されている戦時捕虜の保護を受ける事を禁止されていた日本兵は、自殺同然のバンザイ突撃でバタバタと敵の機関銃に倒され、あるいはジャングルに逃げ込んで飢えて死んでいきました。

 まず、アメリカに戦争を仕掛ける様なバカな事はしなかったでしょう(笑)。そして兵士が飢えて死んでいく前に停戦、休戦、あるいは降伏したでしょうね。

 日本軍の場合は命令を出す司令官や参謀たちは安全な場所にいてうまい物を食いながら、「天皇の兵隊がハラが減ったくらいで情けない事を言うな!」と。

 日本兵の「白骨街道」を現出して惨敗したインパール作戦では、司令官の牟田口中将は前線から命からがら撤退してきた部隊の幹部将校たちを集め、こう訓示したそうです。

・皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。

・兵器が無い、弾丸が無い。

・食う物が無いなどは戦いを放棄する理由にならぬ。

・弾丸が無かったら銃剣があるじゃないか。

・銃剣が無くなれば腕でいくんじゃ。

・腕もなくなったら足で蹴れ。

・足もやられたら口で噛みついて行け。

・日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。

・日本は神州である。

・神々が守って下さる」。

 このバカな訓示は延々と1時間以上も続き、栄養失調で衰弱し切った将校たちは次々と倒れた。

 牟田口の様に後方の安全な司令部で芸者遊びしていたらなんとでも言えますよ。

 戦争ボロ負けで餓死者続出の昭和20年2月、東條英機は天皇に

「陛下の赤子(=日本兵のこと)で餓死したものなど一人もおりません」

と言ったようです。

 日本軍は兵士を残酷に扱いましたが、政府も戦争被害について戦死者の状況などをまともに調査した事はありません。

 学徒動員の正確な数字すら分からないそうですから、日本政府は国民を大切にしたとはとても思えません!!

 また何よりも憤りを禁じえないのは、民間人の被害が残されていない事です!!

 たとえは、終戦後に中国の吉林省では20万人の日本人が寒空に放りだされてしまい「凍死」しているのです。今、この20万人の遺骨を日本に持ち帰るために手続きをしていますが如何ともしがたい感情がこみ上げてきます!!

このような悲惨な事件も一部です!!

性奴隷にされ自決した23人の日本人女性…敦化事件(日満パルプ事件)の真実…!!

性奴隷にされ自決した23人の日本人女性…
敦化事件(日満パルプ事件)の真実…

性奴隷にされ自決した23人の日本人女性

性奴隷にされ自決した23人の日本人女性がいる。

捏造慰安婦とは違う真実。

 昨今、日本軍が朝鮮人女性を拉致して性奴隷をしたとされるコリアンに捏造されたありもしない従軍慰安婦問題で世界の戦勝国から日本はバッシングを受けています。

 しかし、日本の反日左翼のマスメディアは日本が敗戦国であるがゆえに、過去の日本人が酷いことをされた事件を国民に伝えず歴史の闇に葬った。

 加えて左翼マスコミは戦後から現在に至るまで米国、ソ連、中共、韓国、北朝鮮による戦時中の婦女暴行と虐殺のおぞましい事件は全て隠ぺい黙殺しています。

そんな闇に葬られた事件
 敦化事件(日満パルプ事件)を紹介します。

 敦化事件(日満パルプ事件)とは

 敦化事件とは第二次世界大戦の終戦直後に満洲国吉林省敦化で起こった日本女性への深刻な人権侵害事件です。

 1945年8月27日に満洲国吉林省敦化(現吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)ソ連軍によって連日に渡り集団強姦され続けていた日満パルプ製造(王子製紙子会社)敦化工場の女性社員や家族が集団自決しました。

 日満パルプ事件とも呼称されます。

 事件の現場となった日満パルプ製造敦化工場は1934年に王子製紙が敦化県城南門外牡丹江左岸(敦化郊外5キロ)に設立した工場です。

 工場に隣接して設置された社宅地は高さ4.5mの煉瓦壁でおおわれた2万坪の敷地内に壮麗な造りの社宅と福利厚生のためのクラブなどが設けられており、日本人職員とその家族260人が暮らしていました。

 また、敦化市内には2,000人の関東軍守備隊の駐屯地があり、終戦当時には敦化北部の山地に築城しソ連軍の侵攻を食い止めようと備えていた。

 1945年8月9日未明に突如としてソビエト連邦が満洲国に侵攻し、敦化に近い東部国境付近では関東軍・満洲国軍がソ連軍と交戦していましたが、工場や敦化市内では満人や朝鮮人の態度も変わることなく治安が保たれたままであった。

 8月15日に敗戦を迎えた後も工場の満人や朝鮮人従業員は変わることはなかったが、敦化市内では満人や朝鮮人の一部による略奪・放火・日本人女性への暴行が行われるようなった。

 8月17日、敦化郊外で陣地を築いていた敦化守備隊は工場に資材を取りに来て初めて終戦を知った。

 8月19日、ソ連軍が敦化市内に進駐してきたため、敦化守備隊は降伏し武装解除された。

 満洲国を占領したソ連軍兵士

 8月22日、ソ連軍は日満パルプ製造敦化工場に進駐した。

 ソ連軍は社宅に侵入すると1時間以内に社宅の一角を引き渡すよう要求した。
 ソ連兵はすぐにホテル・レストランを兼ねた壮麗な造りのクラブに惹きつけられていった。

 ソ連兵はクラブ従業員の女性2人を引きずり出すとジープで社宅から連れ去った。

 数時間後に拉致された2人の女性のうち、1人はボロボロの姿で帰ってきたが、もう1人は帰ってこなかった。

 8月25日、ソビエト軍は男性全員を集合させると10キロほど離れたところにある飛行場の近くの湿地に連行し、婦女子は独身寮に集められた。

 170人ほどの婦女子は15,6人ずつに分けられ監禁されることとなった。
 夜になるとソ連兵300人あまりが独身寮に移ってくるとともに短機関銃を乱射する頻度が夜が更けるにつれて増えていった。

 女性たちは夜が明けることを祈りながら一晩中恐怖と戦っていた。

集団自決

 8月26日夜明け、酒に酔ったソ連兵たちは短機関銃を空に乱射しながら女性たちが監禁されている各部屋に乱入すると、女性たちの顎をつかみ顔を確認しながら気に入った女性たちを連れて行こうとした。

 女性たちは金品を渡したり、許しを懇願したが聞き入れられず、次々に引きずり出されていった。

 各部屋からは女性たちの悲痛な叫びが溢れたが、ソ連兵は構うことなく短機関銃を乱射し続けていた。

 このため、女性たちは頭を丸坊主にしたり、顔に墨を塗るなどしたが、ソ連兵による強姦は朝になっても収まることはなく、部屋に乱入すると女性たちの胸部をまさぐるなどして気に入った女性たちを何度も連行していった。

 社宅と塀を隔てた工場に残されていた男性社員たちは社宅の異変を察知するとソ連兵の監視を掻い潜り塀を乗り越え社宅に潜入したが、厳重な警戒が布かれている独身寮には近づくことができなかった。

 ソ連兵たちは狼藉を続けるうちに女性たちの部屋の廊下に監視兵を置くようになったため、御不浄や食事もままならないようになった。

 女性たちは自身のおかれている状況や絶え間ない銃声からすでに男性社員たちは皆殺しにあったのではないかと考えるようになった。

 ソ連兵による女性たちへの昼夜に渡る暴行は8月27日の深夜になっても収まることはなかった。
 このため、28人の婦女子が集められていた部屋では自決をするべきか議論がなされるようになった。

 議論中にもソ連兵の乱入があり、隣室からも女性たちの悲鳴や「殺して下さい」などの叫び声が聞こえてきたため、自決することに議論が決した。

 隠し持っていた青酸カリが配られ全員が自決を図り、23人が死亡、5人が死に切れずに生き残った。

 他の部屋ではソ連兵に引きずり出されるときに剃刀で自殺を図った女性もいた。

 8月27日早朝、ソ連兵が集団自決を発見し、将校に報告されると各部屋にはソ連兵の見張りが付けられ、女性たちは外を見ることを禁じられ、遺体はどこかへ運び去られた。

 責任を問われることを恐れたソ連軍将校によってこれ以上の暴行は中止されることとなった。

 この事件については不明な部分が多いのも事実。
 当時の軍部は満州に住む一般人を見捨てて帰還した為、事が発覚すれば、軍部叩きが起こるのを恐れたため、隠ぺいしたとの説もあります。

 敗戦国であるが為に大きく報道されることもなく、話題になることもない事件です。

 自決された女性のご家族、そして被害に遭われながらも生き残ったご本人にとっては思い出したくもない事件かもしれません。

 この歴史の真実は闇に葬られたままではならない。

 このような行為は、人間のする行為ではない!!

 まさに鬼畜のなせる業であると言わねばなりません!!

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